「お嬢ちゃん、今日は早く家に帰ったほうがいいよ」
パン屋のおじさんが深刻そうな顔で言います。でも、少女は袋を抱えてにこにこしていました。
「ありがとう。お金ここに置いてくね」
彼女はカウンターに銅貨をばらまくと、話の続きも聞かずに駆け出して行ってしまいました。
どこで何をしているかと思えば──クーピィは都で買い物に励んでいます。少女は諸々の店舗を回りながら、食料品を購入していました。時折アクセサリーや玩具の誘惑に襲われましたが、それを強い意志(?)ではね退けると、一心不乱に街道を歩きます。末弟子は、こうと決めたら周りが見えなくなる性質のようでした。
しかし、彼女はふと違和感を感じて立ち止まります。落ちついて辺りを見渡せば、道を往く人がほとんど居ないことに気づかされるのでした。いつも賑やかなはずの王都は水を打ったように静まりかえっています。これはおかしい……と流石にクーピィも思いましたが、結局理由がわからないので、少ししたらどうでも善くなりました。
「まあいいや。お弁当にしようっと」
クーピィは広場の噴水に腰かけて、先程まで抱えていた大きな包みを広げます。その中からパンとチーズを一切れずつ取り出すと、美味しそうに食べ始めました。ゆっくり咀嚼しながら、目前の王城を見上げる少女。きっと毎晩のように舞踏会が開かれているのだろうなあ。と、絵本で得た怪しげな知識で、無責任な妄想をめぐらせます。
すると突然、城の中庭から人が飛び出してきました。白い法衣を纏った初老の男性は、慎重に周囲をうかがい──クーピィと目が合った瞬間、ぎょっとして走り去ってしまいました。
「失礼しちゃうわ」 自分を見て逃げ出したのかと思い、彼女はぷりぷりと鼻息を荒くします。
食事も終わったので、ふたたび荷物を手にして立ち上がるクーピィ。不意に気になって、お城の中庭をこっそり覗きます。驚いたことに、そこには見覚えのある「図形」が描かれていました。
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「"画術"だ。これ……なんの魔法だっけ」
曖昧な記憶を辿りながら、絵柄をまじまじと観察します。そうだ、これは確か"門"の画術だ。クーピィは胸につかえていた物が取れたように、すっきりした表情で円陣の中に入りました。
「なんだか、急いで描いたみたい」 かつて師匠に見せてもらった図形とは少し違う気がします。この絵はまるで、たった今慌てて引かれたような、荒々しい描線で組み立てられていました。
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これが簡易の"門"の形式とは知らず、少女は興味津々に検証を続けます。
その時。円の内周が眩い光芒を放ち、クーピィはその外側に思いきり吹き飛ばされました。幸い繁みが衝撃を和らげてくれたので、これといった怪我はありません。けれど彼女の大事な"包み"が、今の拍子に地面に散らばってしまいました。
面食らって円陣に目をやると、そこでは「白」と「黒」の光がお互いを拒絶するかのように激しくぶつかりあっています。いったい何事でしょう。クーピィは固唾を飲み、ことの成り行きを見守ります。
やがて発光がおさまると、そこには彼女が見たこともないような、巨大な黒い人影が立っていました。その姿を見つめたクーピィは、次の瞬間このような感想を抱きます。
『どうぶつ顔のおじさん』
有り体にいうと、それは魔王ガッシュでした。人界と魔界で「その存在を畏れぬ者は居ない」とまで謳われた、最強の魔獣。でも彼女にとっては"初めて見る変わった人"という認識しかないようでした。何故か安心しきったクーピィは、だんだん驚きを怒りに替えてゆきます。
「もう。せっかくの食べ物が散らかっちゃったじゃない」
もともと勝手に"門"に入ったのは自分なのに、訳のわからない事を言って怒り出す少女。ぶつくさ言いながら食料の収集をはじめました。先程からその様子を見ていた魔王は、いったいこいつは何者だ、と訝んでいます。しかし特に害もなさそうなので、彼女を無視して中庭を出て行こうとしました。
するとクーピィは、近くにあった小石を(へなへなと)ガッシュに投げつけます。恐ろしい形相で振り返り、ぎろりと睨みつける魔王。けれど少女はそんな事は意に介さず、自分の主張を述べました。
「人にぶつかったら、あやまらないとダメなんだよ」
(何を言っているのだ。この小娘は) 魔王には状況が理解不能です。普段ならこんな子供は放っておく所なのですが、ふつふつと怒りが込み上げてきました。
さりとて幼な子相手に本気を出すわけにもいかず、彼女がせっせとパンや果物を拾う様を見つめるガッシュ。ふと気まぐれを起こしたのか、足元に転がった林檎を手に取り、クーピィに突きつけます。
『こんな物に必死になっているのか』
そう呟く魔王の巨大な手から、リンゴをさらって答える少女。
「食べ物は大事にしなさいって、先生に教わらなかったの?」
『せんせい……?』
疑問に満ちた表情で、ガッシュが聞き返しました。でもそれは耳に入っていなかったらしく、彼女は全ての食料を元の包みに戻した事を確認しています。そして魔王に向かって言いました。
「でも、手伝ってくれてありがとう」
王城の近くにある広場の噴水。そこに「少女」と「魔獣」が、仲良く並んで座っていました。なんとも珍妙な組み合わせです。魔王は、何故こんな所でのんびりしているのか、自分にも判りませんでした。
童子が色々と話しかけてきますが、その内容の殆どは興味のない、どうでもいい事です。それより彼には、さっきから気になって仕方のないことがありました。
(この娘は、俺が怖くないのか──?)
これまで彼の姿を見て、畏怖や敵対の反応を示さない者はまず居ませんでした。それなのに今ここに座っている少女は、ガッシュの事をまるで意識していないように思えます。
それどころか、屈託ない笑顔まで向けてくるではありませんか。完全に調子を狂わされた魔王は、何故だかとても懐かしい気分になっていました。これと似た事が、遠い昔にもあったような……。
しかし何時までもこんな所にいる暇はない。そう我に返ったガッシュは、立ち上がって歩き出そうとします。そんな彼にクーピィが慌てて声をかけました。 「待って、待って」
足元の少女に目を落とし、何事かと言葉を待つ魔王。彼女は外套から鉛筆のような画材を取り出しました。そして都の石畳に、ぐりぐりと何やら描きつけます。それは花……のように見える絵でした。
(『画術』!?)
一瞬、ガッシュの表情が険しくなりました。が、それはすぐに氷解します。なぜなら───
(いや、画術のはずはない。こんな"下手糞な"画術は見たことがない)……と思い直したからでした。
「あげる。お話きいてくれたから」
少女が余りにもあどけなく言うので、思わず魔王は受けとってしまいます。その花を手にすると、彼の心は不思議と穏かになるのでした。
『いらん、戦いの前に花など無用だ』
自分の感情の変化に戸惑ったガッシュは、それを放り捨てます。するとクーピィが尋ねました。
「おじさん、戦うって誰と?」
『お前の知った事ではない』 魔王は一瞥をくれただけで、すぐさま立ち去ろうとします。少女はその後ろから、彼の外套を掴んで言いました。
「けんかしちゃ、めっ。けんかするのは、悪い子!」
(小癪な、この魔王に命令する気か)
怒号を浴びせようと構えた瞬間、クーピィが花を拾い、再びガッシュに差し向けます。
「だめだよ。戦ってもみんな悲しいだけだよ」
その刹那、魔王は何かを思い出しました。まるで、時が止まったように感じられます。
とてもとても旧い時代のこと。もう自分でも忘れかけていた「何か」が、目前の少女と重なりました。
彼女の穏かな、それでいて芯の強そうな目をじっと見つめ───
ついにガッシュは花を手取ります。
『ふん。もらっていこう』
魔王が屹然と言い放つと、クーピィはぱっと明るい笑顔を見せました。
「じゃあね、動物のおじさん。またね」
そして彼に手を振り、荷物を抱えて(来たときと同じ)南門へ駆け出してゆきます。その後ろ姿を見送った魔王は、いびつな花を懐にしまい込むと、都の北門に向かって悠然と歩き始めました。
『──おかしな娘だ』
都のほぼ中央に位置する、『イーゼル画術学院』。ここでは若き画術師たちの英才教育が行われています。数あるアカデミーの中でも選ばれた優等生だけが通うこの学院は、カンヴァス最高学府として名声を欲しいままにしていました。
そのイーゼルにおいて、首席の座を常に保持している少年がいます。その名は"ウィンザー"。
魔法世界のどこを探しても、彼を超える天才は居ないのではないか──とまで囁かれるほどの存在。学院長ですらその能力に一目置いているようで、今日も彼は院長室に呼ばれている所なのでした。
「院長先生、ボクにお話があるとの事でしたが……」
「おお、ウィンザー君。よく来てくれたね。さ、さ、まあ椅子にかけてくれ給え」
「いえ結構です。はやく用件を伺いたいのですが」
院長と呼ばれた初老の男性は、少年の無愛想な態度に引きつった笑顔を見せました。なんと彼は、先ほどクーピィと目が合って逃げ出した男です。
「はは、せっかちだな。まあ立ち話も何だと思ったのだがね、いや」
「卑屈な媚び笑いは遠慮していただけませんか。学院長らしい威厳を見せもらいたいものですね、ホルベーン先生」
ウィンザーは、院長──ホルベーンを見下しているようでした。それほど自信があるという事なのでしょうか。彼は緩やかに硬筆を掲げると、院長の方面に"唇"の絵を描きます。その絵の中に自分の手を入れると、向こう側から何かを掴み出しました。
それは、黒い「もや」です。ホルベーンがはっとして彼を呼びとめようとしますが、ウィンザーはお構い無しに、その「もや」を解き放ちました。途端、辺りから声が響きます。
『カンヴァス最高権威はこの私のはずなのに、未だあのアーティスを英雄視して有り難がる馬鹿どもがいる。ここは力をつけてきた魔王軍に味方すれば、あの画術師を葬れるし、なにより私の力を世に知らしめる事ができる。なあに、こんな世の中どうなろうと知ったことか。私だけが生き延びればそれでよい。さて、今度はこの小僧を上手く使って、パレットの連中にひと泡ふかせてやるか。扱いにくい奴だが、腕は下手すると私よりも確かだからな……』
音声が全て終了すると、院長は顔面蒼白になって、がっくりとうな垂れました。
「扱いにくくて申し訳ありません」 ウィンザーが嗤笑します。
「まさか、そんな魔法まで扱いこなすとは……しかも私の魔力を破って。ああ身の破滅だ」
絶望に打ちひしがれるホルベーンに、しかし少年は囁くように語りかけました。
「どうしました。ボクが貴方を告発するとでも思っているのですか?」
なに、と顔を上げて、院長はウィンザーを見返します。彼は妖しげな微笑みをたたえながら、狼狽する男に告げました。
「まだわかりませんか? 貴方の手駒になろうというのですよ」
イーゼル画術学院に高笑が鳴り渡ります。ここにまた一人──カンヴァスを混乱に陥れようとする悪魔が誕生しました。
画術師クーピィ
Art magician coopy |
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