それは、ひとつの魔法から誕生した。
この世のどんな生き物とも違う『小さな獣』は、自分を生み出した魔術師を敬愛していた。また創造主も"彼"を慈しみ育ててくれた。"彼"は幸せだった。
しばしの時が過ぎ、魔法使いも歳を取った。それでも異形の獣は生まれた時と同じ姿をしていた。周囲の人々は薄気味悪く思ったが、御祖(みおや)は変わらず"彼"を可愛がってくれた。この時が永遠に続けばいいのに……と"彼"は思った。
だが決して身体が強くなかった主人は、やがて病気になった。あれほど強力だった魔法も衰え、自身を癒す事すら儘ならない。"彼"は医者を呼ぶため、街中を駆け巡った。
しかし、言葉も話せない獣の懇願を取り合う者はなかった。それどころか、"彼"を忌み嫌う人間に追われるはめになった。
這う這うの体で屋敷に戻る"彼"を待っていたのは、床に臥した主人だった。魔術師は何の恨み言も述べず、"彼"に優しく微笑むと、そのまま息を引き取った。
"彼"は泣いた。涙が枯れてしまうほど、泣いた。
その後主人の住んでいた館は、形ばかりの「血縁者」と名乗る者たちが醜く奪いあった。
"彼"はその姿をおぞましがられ、屋敷を追われた。"彼"とて既に親の居ないそこに未練はなかったので、独りあてもなく彷徨うことになる。
また長い時が過ぎた。"彼"はどこに行っても愛されなかった。
"彼"は、自分が醜い──この世に存在してはならない生き物だと──思い知らされた。蔑まれ、疎まれ、憎まれ……久遠かとも思われる時の果て、"彼"は「哀しい」という気持ちすら薄れてゆくのを感じていた。
あるとき"彼"は、街角の画商で珍しいものを見つけた。それは"彼"の主人が描いた『絵』だった。
かつて屋敷を処分したときに売られた物であろう。ショーケースに並べられた絵からは、懐かしく優しい匂いがした。"彼"は本当に久しぶりに、穏やかな気持を取り戻していた。
そこに画商の店長があらわれて、絵を外し始める。買い手がついたのだろうか──いや。なんと店長は、魔術師の描いた絵をすべて捨ててしまった。
慌てて駆け寄った"彼"は、絵にすがって泣き始めた。もう涙など残っていないと思っていたのに……絵画からうっすら感じる、暖かい魔力がそうさせるのだろうか、と"彼"は思った。
"彼"は自分の住み処に絵を引きずり戻る。主人の作品に囲まれて眠ると、幸せだったあの頃を思い出すのだった。だが、そんなささやかな喜びも長くは続かなかった。
付近の住民が通報したのか──『獣狩り』と称した役人たちが、街の中を徘徊していた。
"彼"は必死に身を隠すが、発見されるまでに時間はかからなかった。傷つき追い詰められ、息も絶え絶えで住み処に逃げ込む。どうせ死ぬなら主人の傍で……と考えた彼は、ぐるりと並んだ絵画の中央に座りこみ、目を細めて最期の時を待つ。
しかし、いつまで経っても死ぬ様子はない。いやそれどころか、"彼"は自分の中から不思議な力が湧いてくるのを感じた。これはどういう事か、と"彼"は目を開いて辺りを見た。
それぞれの絵から、七色の光が発せられていた。春光のような輝きは"彼"の身体を包み、その姿を変貌させてゆく。しばらくして絵は消滅するが、残された"彼"は逞しい巨獣になっていた。
全身から強力な魔気が発せられ、周囲の空気を震わせる。しばし自分の変化に戸惑う"彼"だったが、やがて意を決すると、表通りに出て役人たちの前に立った。
"彼"を見た人間は一様に、その顔を恐怖で歪ませた。取り乱し武器を振るう男もいたが、魔獣はそれをいともあっさり捕らえると、近くの壁に叩き付けた。そして前を塞ぐ役人たちを物ともせず、揚々と街を闊歩する。人間たちは皆、恐慌して逃げまどった。
(これが『人間』か……こんな奴らが、今まで大きな顔をしていたのか?)
"彼"の中に、新たな感情が生まれていた。それは「優越感」「支配感」「弱者への憐憫」──今まで自分を虐げてきた人間たちの、浅ましい姿を見て"彼"は嘲笑した。
だがふと我に帰り、途端に情けない思いにかられた"彼"は、そのまま街を後にした。
そして、二度と戻ることはなかった。
それからまた、どれぐらいの時間が過ぎただろうか。"彼"は年月を経るにつれ、次第にその魔力を増大させていった。そして自ら生み出した眷属たちと共に、新たな王国を築かんとしていた。
そのあいだ人間の暮らしを見守っていた"彼"だったが、その愚かさを知るにつけ、ますます憎しみを募らせた。排他的な偽りの「平和」、欺瞞に満ちた上っ面の「愛」。その本質は、これまでの生涯で痛いほど見せつけられた。絶望を感じるには充分すぎる年月だった。やがて"彼"は遂に───
人間を滅ぼすことを決意した。
「魔王さま──」
微睡んでいたガッシュは、何者かの声で目覚めた。ゆるやかに瞼を上げると、そこには彼の眷属が佇んでいる。魔王軍の中でも最高位の実力を持った、アンフォルメル公爵。『魔界の貴公子』と呼ばれる彼は、ガッシュの右腕として絶大な信頼を得ていた。魔王は身体を起こし、束ねた髪を解く。
「お目覚めになられましたか、魔王様」
『アンフォルメルか……夢を見ていた。遠い昔の夢だ』
「夢、ですか」 公爵は微笑しながら紅茶を淹れ、恭しくガッシュに差し出した。
『ときに、カンヴァス征討軍の準備は整ったか』
「ご心配は要りません。既に九割がた足並みを揃え、王都に向けて出立しました。しかし──」
『どうした』 「はい。先ほど魔道の鬼士たちが戻ってきたのですが、どうやら魔道が敗れたようです。それも"禁"に触れて」
冷徹な表情で答える貴公子。魔王は鼻を鳴らし、陶器に口をつけた。
『小物が先走ったか。では、結界を破る手段を見つけたのだな?』
「そのようです。"遠見の地図"なる画術を使ったと聞きました。目には目を、という事でしょう」
『その地図は誰が描いた。いずれ並みの画術師ではあるまい』
「それなのですが」 アンフォルメルは少しためらった後、ガッシュにその人物の名前を告げた。すると魔王の表情が一変し、手にしたカップを粉々に砕く。
『彼奴か! どういう腹づもりか知らぬが、よくも抜け抜けと』
「しかし魔王様、これは好機です。利用してみてはいかかでしょうか」
憤るガッシュをなだめるように、公爵は話し続けた。
「この画術師ならば、王都の中心であるカンヴァス城にも潜り込むことができます。そこに画術の"門"を描かせてやれば、強い魔力の持ち主なら転送することが可能でしょう」
『ほう、転移とは突飛なことを考える。だが並大抵の魔族では人間の描いた"門"は通れまい』
「おそらく無傷で通れるのは、魔王様ぐらいのものでしょう。我ら五公爵ですら、いくらかの痛手を覚悟せねばなりません。ですから──」
アンフォルメルに最後まで言わせず、魔王が後を引き継いだ。
『俺が行って、内部から挟み撃ちといったところか』
「その通りです。都そのものは無傷で手に入れたいので、破壊は避けるとして……我らが正面から王都軍を引きつけている間に、背後から奇襲をかけていただきたいのです」
公爵の提案を即座に承諾したガッシュ。善は急げとばかりに立ち上がって、鎧装束の準備を始める。同刻アンフォルメルは内通の画術師に連絡するため、使い魔を放った。
「"門"の入り口は既に準備しました。六十と四日かかりましたが、画術師が描いたものと比べても遜色ないはずです」
魔界の「貴公子」は、「王」を"門"の間へと導く。そこには複雑な幾何学模様のような細かい絵が、環状にびっしりと描き込まれていた。魔王はこれを描く手間のことを思うと、辟易するのだった。
『よくやったものだ。ではしばし、待つとするか……』
そのころ魔王軍は王都カンヴァスに到達していた。幾つにも分けられた師団は、都の北面を塞ぐように陣取る。それぞれの師団を率いるのは、魔界の公爵ジャッド・マグナ・クローム・バンドルニス・アンフォルメル。更にその分隊には、無数の参謀や部隊長がいて、魔軍の傀儡たちに的確な指示を出していた。
奇襲のような進撃に対して、王都軍の対応が遅れたのは言うまでもない。おっとり刀で駆けつけた兵隊たちは、数こそ劣っていないものの、士気において魔王軍とは雲泥の差があった。五年の間に(平和惚けとまでいかないが)すっかり身体が鈍っていた兵士は、戦いの緊張に身を縮こまらせている。
(勝てる戦だ。これでアンフォルメルと魔王様が到着すれば、我らの勝利は揺るぎ無い)
五公爵の一人ジャッドは、大勢を把握してほくそ笑んだ。いよいよ、憎き人間どもにひと泡吹かせることができる。そう思うだけで、魔族の血が騒ぐのであった。
攻撃はまだ始まらない。両軍は対峙したまま、機を待つ事となる。
「睨み合いになりましたね」
銀髪の画術師は、都の近くにある雑木林から様子をうかがっていました。その姿は透明で、魔族からも人間からも見ることはできません。彼の六人の弟子たちも、それは同じでした。
やや不便なのは、お互いの居場所もわからない所でしょうか。そう思ったパステルは、全員の足にちょっとだけペンキで目印を付けました。もちろん一人ずつ色違いです。端から見ると、色の"かけら"が宙を舞っているという事になり、それはたいへん不気味な光景でした。
「どうやら間に合ったようですね、先生」
マチエールは安堵の溜息をつきましたが、むしろ大変なのはこれからだという事は心に留めています。
「まだ我々が出てゆく訳にはいきません。魔王軍が正々堂々と戦うとは思えない、きっとなにか計略を企てているに違いないのです。まずは、それを見極めなくては……」
興奮した様子で師が捲し立てるので、マーカーは怪しんで尋ねました。
「あの、先生。何だか楽しそうに見えるのですが」
はっとして居住まいを正すアーティス。ごほんと咳払いして、言葉を付け加えます。
「もちろん、いざとなったら加勢に向かいましょう」
やっぱりこの人は変わり者だ──と、弟子たちは(見えない)顔を見合わせました。
画術師クーピィ
Art magician coopy |
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