カンヴァスの地底奥深く。
その場所を知る人間は誰ひとりとして無い、悪魔の棲む王国。それは『魔界』と呼ばれた。最深部に位置する魔王の宮殿──そこには想像を絶する禍々しい姿の怪物たちが屯しており、君主の降臨を今や遅しと待ちこがれていた。
「戻ったぞ!」
双翼の魔物が叫んだ。 「我らが"あるじ"、魔王ガッシュ様のご帰還だ」
謁見の間に現れたのは、人型の影だった。しかし人間ではとても有り得ないほどの巨躯で、全身が黒い体毛に覆われている。その頭部は"狼"を思わせ、たてがみの如き黄金の髪が腰まで、手足にも獣のような鋭い爪が生えていた。身に纏った赤い鎧と天鵞絨の外套は、これも人には到底着こなせない巨大なものであった。
巨獣・魔王ガッシュは、誂えられた己の王座に腰かけ、左右で色が違う「赤」と「青」のオッドアイで周囲を見渡した。そして遂にその口を開く。
『我が同胞(はらから)ども、復讐の時はきたぞ』
ざわめく魑魅魍魎。 『黙れ』 魔王が一喝すると、謁見の間は水を打ったように静まり帰った。
『よもや五年前の屈辱を忘れた者は居るまい。あれから精気を蓄え、ついに俺は魔力を取り戻した。否、むしろあの時より遥かに強大な力を手に入れたのだ』
その言葉に、魔物たちが歓喜の雄叫び・咆哮を上げる。今や魔王軍の士気は再び高まっていた。
「魔王様、まずは如何になさいます」
タキシードを着た悪魔が擦り寄り、(ひとつしかない)大きな目をぎょろりとさせながら、その意向をうかがう。
『画術師はどうしている。特にあの銀髪の男は』
「アーティスは現在七人の弟子と共に、パレットの塔に潜伏しているようです」
『弟子だと? 小癪な』 重々しく立ち上がるガッシュ。
『叩き潰してくれよう───この傷の借りもあるのでな』
そう憎々しげに言って触れる眉間には、斜め一文字の傷跡があった。
「ですが、あの塔には画結界が張ってあります。恐らくアーティス自身が描いたものでしょう。我が傀儡を差し向けましたが、終に塔には辿りつけませんでした」
『いまいましい画術師め!』
魔王の怒声が響く。それを畏怖した妖魔たちは、一斉に平伏した。
『魔道。総力を挙げて、その結界を破れ。俺は他所を叩く』
「御意、すでに手は打ってあります。してガッシュ様はいずこを」
『──王都カンヴァスだ』
「早すぎる!」
偉大な画術師は、珍しく取り乱した声を上げました。ここは彼の書斎。机の周りには多様な言語の書物が、所狭しと積み上げられています。窓の外はすっかり闇に包まれており、ランタンの明かりが薄暗い部屋をほのかに照らしていました。
『魔物がパレットの近くを探っていたのは事実だぜ。雑魚に結界を越えられるわけはないがね』
そう答えたのは、眼前の黒い鳥──そう、何とあの鳥が言葉を話しているのです。
「しかし、魔王が力を取り戻したという証拠です。これまでなら魔物が近づくことすら不可能だったはず……五年、あの戦いからたった五年しか経っていないのに」
『そうか、もうそんなに経ったのか。あいつらも結構大きくなったしな』
黒い鳥は意に介さず、呑気な口調で毛づくろいをしています。
「ペンシル、あの子達は幼い。とても戦いには耐えられません」
『そのために拾ってきたんだろ。焼け野原に残されてたガキどもを、一人ひとり──あいつら、まだこんなにちっちゃくて、ビービー泣いてたっけな。それを戦いの力にと考えてるお前が、そもそも狂ってるのさ。今さら何を善人ぶっているんだ』
ペンシルと呼ばれた鳥は、辛辣な言葉をアーティスに投げつけました。青年は目を伏せます。
「……確かにそのつもりでした。だが、今では彼女たちを愛しているのも事実です。できることなら傷つけたくはない。百年以上生きても、私はこういう時、どうすればいいのか迷う愚か者なのです」
『それに気づけば上等さ。で、どうする気だ』
この鳥はこういう言い方しかできないのだなと、アーティスは苦笑して答えます。
「今日の試験でもはっきりしましたが、やはり皆まだ未熟です。特にクーピィは」
『あの"みそっかす"か。あいつの画術、俺は嫌いじゃないぜ。小手先だけで上手く描かれた絵ってのは、なんとなく虫が好かねえんだ。俺が生まれた画術も、下手糞だったからかもしれんがな』
「それを言わないでくださいよ。百年前あなたを出したときが、私の初めての画術だったんですから」
『いや感謝してるさ。それで何だって?』 ペンシルは戯けた仕草で促しました。
「魔王の復活、そして戦いが始まる事を彼女たちに伝えます。その後どうするかは」
『あいつらに決めさせる──か』
アーティスは頷いて、ゆらゆらと揺れる孤灯を見つめていました。
かつてカンヴァスには、人間達だけが暮らしていました。しかし平和だったこの世界に、いつからか魔物が現れるようになります。彼らが何処からやってきたのか、なぜ誕生したのかはわかりません。ただ一つだけはっきりしていたのは、魔族は人間を深く憎んでいる、という事でした。
数十年、数百年と長い確執が続き──そして五年前。ついに両者の存亡を賭けた壮絶な一大戦争が起こりました。これによりお互い深く傷つき、その数を減らします。この不毛な戦いに終止符を打つべく、人間の中から優秀な魔法使いが集い、魔王討伐に向かいました。ですがガッシュの強大な力の前に、一人またひとりと命を落としてゆきます。最後に残った三人の賢者、ホルベーン・ルキテックス・アーティスは力を合わせ、遂に魔王を追い詰めました。そのとき傷ついた先達を残し、ガッシュと一対一で対峙したアーティスは、激しい死闘の末ついにこれを打ち倒します。かくて七つの王国を恐怖に陥れた魔族は、地下世界へと追いやられる事になるのでした。
「その後英雄と呼ばれたアーティス先生は、都の画術アカデミーの院長に推薦されたんだけど、これを断って隠遁。パレットで私たちと暮らしてるというわけ。それで結局知っての通り、院長にはホルベーン氏が就任。あの人は先生と画術に対する考え方が全然違うから、アカデミーは紋切り型の教育方針になっているわね。そしてルキテックス老師は消息不明と──こんなところかしら」
塔の大寝間には、七人が一度に眠れる大きなベッドがありました。そこでテンペラが語って聞かせる話は、概ね既知のことでしたが、何度聞いても義妹たちには新鮮に感じられます。また師の偉大さを改めて実感し、尊敬の念を増すのでした。
「あたし、気がついたらもうパレットにいたし……昔話って何か、変な感じよね」
枕を抱きながら感想を述べるパステル。その言葉は、弟子たちに共通する思いでした。物心ついた頃には既にアーティスと暮らしていたのですから、当然と言えるでしょう。実の両親の事などほとんど覚えていない子が大半なのでした。
テンペラは少し記憶があるらしく、この話をするときに決して明るい顔をしません。ただ──それとも全く違う様子で、ひとりアクリルだけは昔話……というより、「魔族」の話に特殊な反応を示しています。とくに魔王の話になると、自分でも訳がわからないほど強く感情を揺さぶられるのでした。
(魔王──ガッシュ)
誰に言うともなしに呟くアクリル。隣りに寝転がって、うとうとしていたクーピィが尋ねます。 「なあに……?」
「なんでもないのよ。起こしてごめんなさい」
アクリルは義妹の柔らかい髪を優しく撫で、毛布をかけ直してやります。さらにその隣でも、クレヨンがいびきをかいて毛布を蹴飛ばしていたので、面倒そうな顔をしながら(ついでに)直すのでした。
「もう寝よう、明日も早いよ」
マーカーは読書に勤しんでいるマチエールに栞を渡し、全員に向かって言うと、画用紙の上に灯っている明かりを「消しゴム」で消しました。
『来た──来たぞ! 魔道だ』
次の日の早朝、アーティスはペンシルの呼び声で目覚めます。
「これは本格的に画結界を越えるつもりですね」
紙に描かれた"眼鏡"に穴を開け、窓より塔下を望むアーティス。ペンシルも颯爽と飛び回り、上空から妖魔たちの行動を監視していました。
魔王ガッシュの参謀の一人、片目の魔道。そしてその配下である「魔道の鬼士」らが、パレットの霧の中を彷徨っています。しかしその足取りは蛇行ながらも、確実に塔に向かっているのでした。
『おい。結界効いてないんじゃないか』
「破られてますね、これは……おや、魔道が手にしてるのは"遠見の地図"じゃないですか。あれを描いたのは恐らく……どこであんなものを手に入れたのやら。盗まれたんでしょうかね」
『どうりで迷わないわけだ。ところで、のんびり構えてていいのか』
「善くないです。私がここで撃退してもいいのですが──そうですね、皆を呼んで来てください」
思っていたより早く起こされた生徒たちは、覇気のない顔つきで師の前に集まりました。クーピィなど立ったまま寝ているので、横にいるクレヨンがそれを肘で突つきます。そんな彼女らも、アーティスの話を聞くうちに事の重大さを知り、一気に目を醒ますのでした。
「魔王が蘇ったというのは、本当ですか」
マーカーが真剣な顔で聞き返します。答えたのは、ペンシルでした。
『あの魔道っていうのが、その証人だ。まあどの道いずれ話さないといけなかったし、今回の事はいい機会ってわけだな。なあアーティス』
対するアーティスも深々と頷くので、弟子たちは現実を受け入れざるを得ません。
「そ、そんなぁ」
クーピィの膝が震えています。おとぎ話(というか実話ですが)でしか聞いたことのなかった魔物が、いま正に塔に向かっているというのです。幼い彼女は、まだ見ぬ魔族に対する恐ろしい想像で、頭がいっぱいになるのでした。
「それで私達はどうすればいいんですか」
テンペラが気丈な様子で問うと、一同の視線が師匠に集まりました。固唾を飲んで言葉を待ちます。
「それは君たちが決めてください。これからどうするか強制はしません」
戸惑う七人の弟子。相手は凶悪な魔族、はっきり言って怖い……というのは、全員の一致した思いでした。ではどうするか──逃げるか、他人任せにするか。あまり楽しくない選択肢を用意された彼女たちは、しばし沈黙するしか術を知りません。
「しかし、いつまでこうしていても始まらない。僕達にできることを考えよう」
「あれが魔王の参謀というなら、先生にお任せしたほうが善いのではないかしら」
「でも、私にも手伝いぐらいはできると思うな。何もしないより経験になると思う」
「怖いよお、やめようよぉ」
「馬鹿、逃げたって意味ないわ。わたしたち先生の弟子なんだから、結局魔族のお尋ね者よ」
「ということは、やっぱり──」
やがて意見もまとまったのか、マーカーがアーティスに向かって告げます。
「先生、僕たちも戦います。どこまでやれるかは、わかりませんが」
それを聞いた師匠は深い溜息をつくと、弟子たちに打ち明けました。
「やはりそう言うと思いました。ですが……正直にいうと、まだ未熟な君たちに戦いはさせたくない。でも、それは前に進むのを諦めるという事です。いずれまた人間と魔族の戦いが始まるでしょう。そうなれば、この世界が再び暗黒の時代に逆戻りすることになります。それを阻止するための新しい力が必要なのです」
「大丈夫だって。こんな時のために修行してきたんだから」
パステルが腕まくりして笑顔を見せます。それに触発された一同は、次々と気合を入れ始めました。
「僕も及ばずながら協力するよ」
「攻撃なら私に任せるのね。魔族とやらは、ちょうどいい練習相手になるかしら」
「魔王軍なんか、わたしの画術でやっつけてやるわ!」
「どんな理由があれ、他者の生活を踏みにじる魔族は、絶対に許せません」
「あ、あたしだって、頑張るんだからぁ」
(いい感じじゃねえか) ペンシルが、アーティスにそっと囁きます。微笑んで頷いた師は、気を引き締め弟子たちに呼びかけました。
「それでは皆、私についてきて下さい。魔道退治に出向きます」
意気込んで後に続く少女たち。クーピィもポシェットに色々詰め込むと、とことこと最後尾についてゆこうとします。ところが、そこにアーティスが告げるのでした。
「クーピィは、ここに残ってください」
画術師クーピィ
Art magician coopy |
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